常設展示

別棟

別棟外観

別棟(べつむね)は昭和3年(1928)建築の木造2階建て。料亭・料理旅館を営業していた頃の建築を利用しており、料亭ならではの風情があります。1階には枚方宿や淀川の舟運などについて解説した展示室があり、2階では63畳の大広間とかつての客室をご覧いただけます。令和5年(2023)には国の登録有形文化財(建造物)になりました。

鍵屋の歴史
鍵屋では創業を天正年間と伝えていましたが、文献史料の上で「鍵屋」の名が確認されるのは、安永2年(1773)の古文書が最初です。この古文書での鍵屋は「餅屋」ですが、文政年間には「商人宿」、幕末ごろになると「旅籠」へと成長します。近代以降は料亭・料理旅館として、平成9年(1997)営業を続けていました。
 この展示室では、上記古文書(複製)や近代の鍵屋を偲ばせる資料、鍵屋旧蔵の品を展示しています。

発掘された枚方宿
京街道の基礎は、豊臣秀吉が淀川左岸に築かせた堤防「文禄堤」です。文禄堤は淀川治水のための堤防であるだけでなく、堤上は伏見と大阪(大坂)を結ぶ交通路としての役割を持っていました。
 枚方宿内では1987年以降、家屋の建替などに伴い、発掘調査が行われています。この展示室では、くらわんか茶碗など枚方宿内や鍵屋の主屋を解体調査した際の出土遺物を展示しています。

昔日の鍵屋
この展示室では、幕末から明治初頭頃の鍵屋敷地全体の推定復元模型を展示しています。鍵屋の裏手に淀川が流れて、船着場になっていた頃の様子がわかります。また、料亭時代の写真や主屋の解体復元工事の際の写真もご覧いただけます。

枚方宿と街道
京街道は、京都と大阪(大坂)を繋ぐ街道として多くの旅人が通行しました。江戸時代には、4つの宿場(守口、枚方、淀、伏見)が置かれ、ここ枚方も宿場町として賑わいました。
この展示室では、江戸時代の枚方宿の町並みがわかるような絵図や古文書、復元図(推定)、模型などを展示し、人馬の継立や助郷、宿場の運営の仕組みなどについてもパネルで解説しています。人々の生活を偲ばせる高札や両替天秤などの民俗資料もご覧いただけます。

淀川の舟運
淀川は京都と大阪(大坂)を結ぶ重要な交通路でもあり、大小の貨物船や乗合船が往来しました。大量の物資や旅客を運ぶには、陸路より水上輸送のほうが、安価で容易だったのです。明治時代以降、鉄道や道路交通の発達にともない淀川舟運は衰退していきますが、かつての枚方は船番所や浜問屋が置かれるなど、淀川舟運の中継港としても賑わっていました。
 この展示室では、淀川三十石船や煮売茶船に関係する絵画資料や古文書(複製)などを展示、淀川交通についてパネルで解説しています。また、三十石船の客と煮売茶船(くらわんか舟)の売り子のやりとりを再現した立体映像もご覧いただけます。

くらわんか舟
枚方付近を往来する乗合船(三十石船)に漕ぎ寄せ、餅やごんぼ汁などを売る煮売茶船、通称「くらわんか舟」の復元模型です。船上に火床を置き、煮炊きができる2人乗りの小舟です。「餅くらわんか、酒くらわんか」と、客に乱暴な口調で呼びかけるのが面白い、と枚方名物になっていました。「くらわんか」は「食べませんか」という意味の方言です。
 くらわんか舟は運上金を免除されるかわりに、船番所の御用や災難時の救助舟を勤めることなどの役割を課せられていました。

大広間
昭和3年(1928)改築の際につくられた63畳の大広間です。折上格天井や北山杉の床柱など、豪壮な造りです。現在も使っている照明は、平成になってから付けられたものですが、洋風の電笠でレトロモダンな雰囲気を醸し出しています。
 この広間からは淀川を一望でき、対岸(高槻市)の眺望も楽しめます。現在は、目の前に府道13号(京都守口線:旧国道1号線)が通過し、淀川の流れも変わっているため、宿場であった頃の景観からはずいぶん変化しましたが、淀川に臨む部屋として、往時を偲んでいただけます。

笹の間
大広間と同様、淀川を眺望できる個室です。根来塗りの座卓は料亭時代の雰囲気を伝えています。襖には大正デモクラシー運動のジャーナリスト「鳥居素川(とりいそせん)」、臨済宗の僧侶「南天棒鄧州(なんてんぼうとうしゅう)」の書、欄間には枚方ゆかりの日本画家「中井吟香(なかいぎんこう)」の絵が残っています。